余白。

2005年11月18日 ガレージ


 
 
 
  
 
 

この前読んだ文章の中で
日本の文化というのは物質の中に余白があって
その余白を想像力で埋めるものなのだ
という意見があった。
余白がある
つまり何かがない状態が「侘び」
その余白を感じることそして想像力で埋める作業が「寂び」。
たとえば体言止めで終わる定家の和歌だったり
或いは小さな空間に区切られながらそこに何もない茶室だったり。

他に何があるかを考えていたが
今日能を観にいったら
まず舞台が余白だらけだし。
(舞台装置は正面の松の絵と橋がかりと目付柱くらい)
特に能面はニュートラルな表情で
しかしわずかな傾きで憂鬱にも明るい笑顔にもなる。
しかし本当に傾きだけで変わるものなのか。
劇の初めは子供を失った沈うつな表情でいたのに
最後のカタルシスでは子供と再会し晴れやかな表情になる。

その余白を埋めるのは
演者の表現力のほかに
観客の想像力も働くんじゃないかと思う。
 
だから能を見るのはむずかしい。
なぜならそういう想像力を働かせながら見なければならないから。
想像力を働かせるには
劇の中の文句を理解しなければならない。
理解するための知識がなければならない。
役者が扇で指し示したむこうに
山や海や月や霞を想像しなくてはいけない。
 
そういう余白を埋めるという共同作業が
だんだんとできなくなっていくのかな。
 
 
今の日本に「余白」があるだろうか?
何もないところがあるだろうか?
最近そんなことを考える。

想像力を引き出す余白。
 

 
 
 

 


 
 

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