最近職場の同世代に敵が増えてきているような気がする。
人の「気」には敏感な方で
その人間が自分に対してどういう感情を持っているか肌で感じる方。
まあある意味妄想。
そんなんで最近敵が増えてるなあと感じる今日この頃。
はっきり言って仕事は王道でやってますので
人に恨まれるような過ちはやってませんので
まあおそらくはやっかみだろうということで
そういうすかれたり嫌われたりも含めて全て受け止めて飲み込んでこそ
腹も据わるってもんだろうと
自分が正しいと思うことをどれだけ通していけるか
(もちろん社会的にも正しいことを)
30も半分を過ぎたいま
それくらいの筋は通していかないとのこりの人生薄っぺらくなります。
こちらの思うように行かない時に
○○しろ
と命令すると
かえってこじれて
さらに腹が立つことになる。
こちらの言うことを聴かず
見た目はむかつく人間でも
よくよくみていると
ほめどころがあったりして
そこをそれとなく触れたりすると
相手はぐっと心を開いたりする。
そうすると
こちらのいいたいこともわかってくれたりする。
古典を学ぶ意義、の一つ。
2010年12月5日 教室現代人である自分たちが
いかに近代的思考の土台にたっているのかを自覚すること。
そのためには近代的思考を学ぶとともに
前近代的思考をも知る必要がある。
一橋大学の入試問題の近代文語文問題は前者を意図しているし
昔の京都大学の古文は後者を意識しているように思う。
残念ながら
東大の古文問題からそういう意図はくみ取れない。
高校生のうちに読んでおけばよかったと思った本。
2010年11月7日 教室って
けっこうあったはずなんだけれど
なかなか思い出せない。
昨日読了した丸山真男「日本の思想」は
教科書に載っている「「である」こと「すること」」を所収している。
あと
木下是雄「レポートの組み立て方」。
これはむしろ大学生向けか。
外山滋比古「思考の整理術」もある。
小説は人の好みがあるので何とも言えない。
ただ
シェークスピアは若いうちに読破しておくべきだったと思う。
ほかにもいろいろあるはず。
皆さんは何か
高校生の頃に読んでおけばよかった
と思った本はありますか?
朝教室に行ったら
なんだか全員にやにやしている。
気づいたら
一人の生徒の机の上に
なにやらお菓子やら
ジュースやら
もう使わない教科書やら
もう使えないバスカードやら
よくわからない萌えキャラのPOPだとかが置いてある。
その机の生徒はまだ来ていなかった。
「なにそれ」
「〇〇の誕生日なんすよ」
そういうセンス
嫌いじゃないよ。
昨日体育祭が終わりました。
雨が降りそうだったのですが何とか持ってくれて善かったです。
何が良かったって
水曜が研修日(定休日)で
それが体育祭延期なんかでつぶれなくてすんだから☆
でも楽しかったですね。
生徒と一緒に棒倒しや騎馬戦やリレーで盛り上がり
(もちろん参加はしてないですが円陣くんだり勝ったときにみんなで人差し指立てて雄叫び上げたり)
応援合戦で一緒に躍ったり。
今日は研修日なので
気持ちを切り替え
大学入試の出願の研修会に行ってきました。
やらねばなあ。
と思っている人が
周りにもっと居てくれるといいんだけれど。
あしたからしゅうがくりょこう。
2010年5月9日 教室いってきます。
京都奈良です。
京都はこのまえいってきたばかりだけれど
正直京都初心者なので
いままで行かなかったところへ行こうかと。
今回は洛西や洛北にいこうかとおもってます。
御所にも行きます。
しておいたほうがよくなることがある。
お酒の熟成とか然り。
植物の生長然り。
「助長」という言葉の由来のとおり
「うまくなれ」と思うばかりに手を出し口を出しすぎると
かえってベストな進展を妨げる
どころか
物事を駄目にする。
放置する方は気が気でないのだけれど
時にはそういう勇気が必要で
それさえできれば
ほら事態はいい方へ進んでいる。
部活の話です。
この前偉大な発見をしてしまいました。
ATOKで
文語入力が出来るんですね。
今まで古典の本文を打ち込むのに
「たまう」→「給う」→「給」→「給ふ」
というような面倒なことをしなければならなかったのが
一発で「給ふ」を入力できる!!
その快感といったらもう「えならぬ」ものでした。
気合いはいりすぎ
理想高すぎ
やりすぎ
と言われ続けてきて
ようやく
その意味が実感できてきた。
やっと現実に合わせる方法が見えてきた。
でも
迎合してしまったような気もして
さあどうしようかという感じ。
狙いを絞って
きちんと時間をかけた段取りを組めば
「偏差値」を上げてやるのはそれほど難しい話ではない。
模試の結果が返ってきて
去年比で5あがった。
だけれど
偏差値なんて訓練すれば上がるけれど
社会に通ずる教養を育てるのは
なかなか難しい。
そもそも
きょうようとはなにか
というところから考えていかなければならないから。
しかも
限られた時間の中で
そのきょうようを植え込んでいかなければならないから。
今日は高校の卒業式ですね。
うちでも午前中にながいながい卒業式がありました。
でもなかなかいい卒業式でした。
卒業生の答辞はうちの部活の子が読んだし。
うちはなぜが答辞率高い。
そのあと午後から祝宴。
立席パーティー。
4年前に自分が高3タンニンとして卒業させたときのことを思い出し
2年後に自分が高3タンニンとして卒業させるときのことを想像する。
答辞を読んだ例の生徒からお世話になったお礼にとコサージュを受け取る。
素直にうれしいね。
職員室にて。
今年卒業させた同年代のタンニンS氏が嘆いてた。
「自分は人気のない教師だって痛感しましたよー。
UN先生(自分)がC組タンニンしていたときは
生徒が祝宴で先生の処にすごく集まってきてたのに
今日は僕の処に全然来ないんですよー
期待してたのになーうーん」
たしかに厳しい先生だからなあ。
ちょっと気の毒。
でも
先生の価値というものは単に人気では測れないから。
はたして
2年後の自分はどうだろうか。
の面白さに今更気づく。
深く読める奥行きがある。
文脈から推理していくとかなりいろいろな発見がある。
朝イチから伊勢物語で盛り上がる男子高校生諸君って。
高い目標を設定したら
発奮するどころか
逆につぶれてしまうということがある。
そういう現象を何度か見てきて
思う。
ひとにはそれぞれ分相応の目標を設定しなければならぬ。
ただし。
一つステップを乗り越えたならば
その次のステップへ行けばよいということ。
この前日経アソシエにも紹介されていた「マンダラート」。
そのまえから自分で開発してやってました。
3×3=9マスの○をまず大きく書く。
まん中の○に考えたい大きなテーマを書く。
そのテーマを達成するためのアイデアを
周りの残り八つの○に書き込んでいく。
さらに8つのアイデアそれぞれの周りにもそれぞれ8つの○を用意しておき
その中にそれぞれのアイデアを達成するための具体的な実践方法を書き出していく。
そうすると結果的に
大きなテーマを成し遂げるための8×8=64個のアイデアを出すことができる。
例えば中心のテーマに「全国制覇」とかいたとして
それを成し遂げるための中期目標として
「ライバルを絶対倒す」
「組織を強化する」
「自分のライフスタイルを改善する」
などと書き
「ライバルを絶対倒す」ために
「毎日筋トレ○○回」とか「ランニング」とか
「組織を強化する」ために
「ミーティングの改善」とか「挨拶の徹底」とか
思いついたことを書き出していくのだ。
うちの部活でこれをやったことで
意識改革がかなりできて
道場の整理とか練習への意識がかなりあがったことがある。
ポイントは
具体的に書くこと。
具体的に書かないとあまり効果が出ない。
具体できに書ける人はそれだけ普段の意識が出来ていることになるし
それを張り出しておけば
具体的に考えられなかった人も人のアイデアを盗んで自己改革をすることができる。
いままで
部活の運営について
できるだけ子供らの意志を尊重しようと思ってやってきた。
彼らの自由意志を引き出そうと思ってやってきた。
はじめのうちは張り切っていろいろと考える。
だがそのうちにだんだんとモチベーションが落ちていき
そして責任感のない自由へと落ちていってしまう。
やはり
中学生の段階で自分たちの意志を
目標をもとにして
より厳しく価値の高い方へと持っていくことは難しいのだろうか。
彼らの自由を尊重するより
枠に押し詰めてコントロールしていく方がいいのだろうか。
自分もそちらのほうが簡単だし
コントロールをせざるを得ない。
日本の学校の「部活」における顧問って
いったい何者なんだろうか。
教壇の上に立っていると
目の前の
とくに後ろの方でざわついている話し声には時々腹が立ったりする。
クラスを運営する立場としては
授業中うるさかったという話を聞くと
気が気でなかったりする。
教育実習の見学に
自分のクラスの授業に行った。
実習生の授業を見るということの他に
クラスの状況を自分の目で確認するという目的もあった。
で
授業を見て
自分の見方は大きく変わった。
たしかに後ろの方がうるさい。
しかし
それはあくまで授業に参加しているから
うるさいのだった。
つまり
おたがいわからない箇所を確認し合っているのだ。
実習生の授業だからなおさら
わからない生徒のピックアップがされないからなおさら
それがよく分かったのかも知れない。
上からの視点なら
うるさい生徒は単なる集中していない邪魔者にうつる。
しかし
教室の後ろから眺めてみるだけで
すぐに生徒の実情が見えてくる。
視点の位置の違い。
ものごとは
見る場所によって
その姿を大きくかえる。
それは
見る箇所によって
そう見えるべきという思いこみが働くからなのかも知れない。
ちがう場所から見ることで
「そう見えるべき」もののほんとうの姿を知る。
単にうるさいのではない。
あくまで授業に向かっていたのだ。
そんなかれらを叱ってしまえば
何が起きてしまうか
それは想像に難くないだろう。
いいたいことをいうこと。いいたいことをいわないこと。
2009年6月5日 教室頑張っていない人間や
物事をいい加減にしようとしている人間には
はっきりとものを言う。
そしてそれをいうにはタイミングが一番重要だ。
ただ残念ながら
頑張っていない人間は
人の意見を受けいれようという余裕がないから
ことばが染みこんでいくにはかなりの時間が必要だと思う。
だからこそ
ことばをかけておいて経過を待つ。
いちばん良くないのは
機会を逃して言わないでもっとその人が駄目になっていくことだ。
何とか努力しているひとには
言いたいことがあってもいわないのがいい。
そのひとのなかでそのときいろいろな言葉が生まれているはずだから。
だからそのときはその人自身の言葉を大事にするべきだと思う。
端から見ていていらいらいしたりアドバイスしたくなっても
我慢する。
いちばん良くないのは
頑張っている機会に周りが横やりを入れてしまうことだ。
そして
どんな場合にでも
ひとに伝わることばをうみだすというのが
本当に難しい。
疲れがとれない。
家に帰って食事をしたらもう動けない。
21時から6時まで寝て
それでもつらい。
以前は12時に寝て5時に起きて勉強していたけれど
とてもじゃないけれどそんな体力がない。
先週辺りから目眩をよくかんじていたんだけれど
さらにショックなことが。
昼休み
職員室にいたら猛烈に疲れて
目頭を押さえながらうたた寝してしまった。
・・・・・・
気がついたら
授業開始後10分経過!!
しばらく何がおきたのかわからないでいたが
ようやく寝過ごしたことに気づいて
周りの先生に気づかれないように
努めて冷静なフリをして
いそいで教室へ。
その教室では
生徒が静かーに小テストの勉強をしていて
ちょうど級長が黒板の前に出てきておもむろに
「自習」
とか書き始めていた。
おいまて!
勝手に自習にしてんじゃねぇよ!
といいながらようやく授業開始。
事情を説明したら生徒には笑われたが。
しかし。
昼休みの終わりと授業の開始時にチャイムが鳴るわけで
普通ならそのときに気づくわけで。
二回のチャイムに気づかないくらい疲れていたなんて
少なからずショック。
きょうは休みなのだが
まだやはりふらふらする。