新古今和歌集31~35
2011年6月7日 書斎百首たてまつりし時 惟明親王
鶯のなみだのつららうちとけてふるすながらや春を知るらん
だいしらず 志貴親王
岩そそぐたるみのうへの早蕨のもえ出づる春になりにけるかな
百首歌たてまつりし時 前大僧正慈圓
天の原富士の煙の春の色の霞に靡くあけぼのの空
崇徳院に百首歌たてまつりける時 藤原清輔朝臣
朝霞深く見ゆるや煙立つ室の八島のわたりなるらん
晩霞といふことをよめる 後徳大寺左大臣
なごの海の霞のまよりながむればいる日をあらふ沖つ白波
☆後徳大寺左大臣の歌のスケールの大きさが印象的。 だけれど「なごの海」の春の霞の間から見える夕焼けという穏やかさと柔らかさがある。
新古今和歌集26~30
2011年5月31日 書斎藤原秀能
夕月夜潮満ちくらし難波江のあしの若葉にこゆるしらなみ
春の歌とて 西行法師
ふりつみし高ねのみ雪とけにけり淸瀧川の水の白波
源重之
梅が枝に物うき程に散る雪を花ともいはじ春の名立に
山部赤人
梓弓春山ちかく家ゐしてたえず聞きつる鶯のこゑ
よみ人知らず
梅が枝に鳴きてうつろふ鶯の羽しろたへに淡雪ぞふる
☆26歌は切継ぎの影響による序列の乱れだが、他では雪の気配が遠のいて鶯の鳴き声がしきりである。とおもったら、鶯の羽に淡雪がふる。季節は行ったり来たり。現実もそうだ。
山部赤人の歌は鄙に来た時の心持ちでとても共感できる。覚えてくちずさみたい物だ。
新古今和歌集21~25
2011年5月28日 書斎(だいしらず) よみ人知らず
いまさらに雪ふらめやもかげろふのもゆる春びとなりにしものを
凡河内躬恒
いづれをか花とはわかん古郷の春日の原にまだ消えぬ雪
家百首歌合に、余寒の心を 摂政太政大臣
空はなほ霞もやらず風寒えて雪げにくもる春の夜の月
和歌所にて、春山月といふ心をよめる 越前
山深みなほ影さむし春の月空かきくもり雪はふりつつ
詩をつくらせて歌にあはせ侍りしに、水郷春望といふ事を
左衛門督通光
みしまえや霜もまだひぬあしの葉につのぐむ程の春かぜぞ吹く
☆やっと少し風が温みて春の気配です。「春」が来るまでは意外と長い。
新古今和歌集16~20
2011年5月27日 書斎日吉社によみてたてまつりける子日のうた (俊成)
さざなみやしがの浜松ふりにけり誰が世にひける子の日なるらん
百首歌たてまつりし時 藤原家隆朝臣
谷川のうちいづる浪も声たてつ鶯さそへ春の山風
和歌所にて、関路鶯といふことを 太上天皇
鶯のなけどもいまだふる雪に杉の葉しろきあふ坂の山
堀河院に百首歌たてまつりける時、のこりの雪の心をよみ侍りける
藤原仲実朝臣
春きては花とも見よと片岡の待つのうはばに淡雪ぞふる
だいしらず 中納言家持
まきもくのひはらのいまだくもらねば小松ヶ原にあは雪ぞふる
☆まだ雪が降ってなかなか春らしくなってきませんが、それでも鶯が鳴き始めました。
新古今和歌集11~15
2011年5月26日 書斎だいしらず 山部赤人
あすからは若菜摘まんとしめし野に昨日も今日も雪はふりつつ
天暦御時屏風歌に 壬生忠見
かすが野の草は緑になりにけり若菜つまんとたれかしめけん
崇徳院に百首歌たてまつりける時、春の歌 前参議教長
若菜つむ袖とぞみゆる春日野の飛火の野べの雪のむら消え
延喜御時屏風に 紀貫之
ゆきてみぬ人もしのべと春の野のかたみにつめる若菜なりけり
述懐百首歌よみ侍りけるに、若菜 皇太后宮大夫俊成
沢におふる若菜ならねどいたづらに年をつむにも袖はぬれけり
☆俊成の歌は手の込んだジョーク。「若菜つむ我が衣手は露に濡れつつ」を引き合いに出しながら、若菜を「摘む」のではなく、年を「積んで」老いた我が身を嘆いて涙を流す。
しかしジョーク以上の余情は感じない。
新古今和歌集6~10
2011年5月25日 書斎だいしらず 俊恵法師
春といへばかすみにけりな昨日まで浪まにみえしあはじ嶋山
西行法師
岩まとぢし氷もけさはとけそめて苔のしたみず道もとむらん
よみ人知らず
風まぜに雪はふりつつしかすがに霞たなびき春はきにけり
時はいま春になりぬとみ雪ふるとほき山べに霞たなびく
堀河院御時、百首歌たてまつりけるに、のこりの雪の心をよみ侍りける
権中納言國信
かすが野の下もえわたる草の上につれなくみゆる春のあはゆき
新古今和歌集 1~5
2011年5月23日 書斎一日に五首ずつ和歌を写していこうと思う。
手で書くのがよいのだけれど
こうして人に見られているところでできるだけ継続していく。
古人は勅撰集の和歌を全てそらんじていたという。
そこまでたどり着くには遙か遠いのだけれど
遠くても一歩を踏み出せば
一歩分だけ近づくことができるだろう。
そしてもしかしたら
気づいた時には目指していたところにずいぶんと近くなっているかもしれない。
春歌上
はるたつ心をよみ侍りける 摂政太政大臣
1 み吉野は山もかすみてしら雪のふりにし里に春はきにけり
はるのはじめのうた 太上天皇
2 ほのぼのと春こそ空にきにけらしあまのかぐ山霞たなびく
百首歌たてまつりし時、春の歌 式子内親王
3 山ふかみ春ともしらぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水
五十首歌たてまつりし時 宮内卿
4 かきくらし猶古郷の雪の中に跡こそみえね春はきにけり
入道前関白太政大臣、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りけるに、
立春の心を 皇太后宮大夫俊成
5 けふといへばもろこしまでも行く春を都にのみと思ひけるかな
源氏物語は名文である。
2011年1月21日 書斎桐壺巻から源氏を読んでいる。
もちろん仕事の上であるけれど。
大学生の頃はざっと読んだだけでよく意味も分からないでいたけれど
今こうして一言一句ノートに書き写し
そして品詞分解し自分で訳しながら読んでいくと
物語としてすばらしい文章だなあと思う。
そう思う理由は一つだけ。
文に無駄がなくきちんと文章がつながっているということ。
源氏は難解と思っていたけれど
実は全くそうではない。
逆にこれほど無理なく読み解ける文章はないのではないだろうか。
買おうかなどうしようかなscansnap。
2011年1月10日 書斎職場の人は二人もってる。
プリントも書類もあっという間にスキャンして
デジタルデータで保存しておける。
最近流行なのは
本を裁断してスキャンスナップでスキャンして
それをipadで閲覧すること。
つまり自分で電子書籍を造ってしまうこと。
最近これも著作権法で問題になりつつあるけれど。
究極
家に書斎が要らなくなる。
家にある本は雑誌も全集もすべてスキャン。
家でも職場でも屋外でも
どこでも自分の蔵書を読むことができる。
データが重ければgmailでデータをクラウド化しておけば
いつでも見られる。
どうしようかなあ。
買うべき買わざるべきか。
躊躇その1
買ったところでこまめにスキャンするの?
躊躇その2
ipad持ってないけど買うの?
うーん・・・。
ハーバード白熱教室講義録。
2011年1月10日 書斎この三連休(土曜は仕事だったので二連休)
これと『坂の上の雲』と『源氏物語』を同時進行で読み進めています。
マイケル・サンデル。
『これから正義の話をしよう』のほうが売れているけれど
教師である自分はマイケル・サンデルの講義の進め方のほうに興味があったので
こちらをまず読むことにした。
『正義』のほうは、この講義の土台となるサンデル氏の論説。
これは今読む本でしょう。
講義の進め方もとてもおもしろいものがあるが
それはまだまとめ切れていないのでこれから研究していきたい。
内容が興味深い。
世界や日本の政治の今までの方向性そしてこれからの方向性を考えていくうえで
とても基本的で重要な思考の土台を与えてくれる。
今まで自分は何も知らずに選挙に行っていたんだなあと考えてしまった。
たとえば
お金持ちに課税して貧しい人に分配する功利主義的福祉国家を選ぶか
それとも個人の権利を守るリバタリアンの道を選ぶか
それとも?
できれば高校生くらいでこの本に挑戦してくれると日本の将来に少し希望が持てそうだ。
雲ですが。
見終わった後
そういえば親父がずっと前から
「坂の上の雲読んだか?読んでいないなら読んどけ」
と言っていたのを思い出した。
親父の言うとおり
もっと早くに読んでおけばよかったなあ。
その親父は最近
ことある事に
「勉強してるか?しっかり勉強しろ」
と言う。
今の世の中のどうしようもなさを
どういう風にどうしようもないのかをちゃんと見て
どうすればいいのかを考え語り合える
そんな人間を育てたいものですね
教師として。
世界の若者は当たり前にできるのに
日本はいつしか
諧謔で紛らわすばかり。
そういや
今の自分と同い年で龍馬は死んだのね。
BOOK3は朝日の書評曰く
「畳めるだけ畳んだ」。
たしかに物語としてはそのとおり。
謎解き本のようなかんじもした。
だけれど
最後に首都高への階段を昇っていくシーンでは
『古事記』の神話性を感じた。
そもそも
小説『空気さなぎ』のつくりかたが『日本書紀』的であったわけで。
もう一回読み解いていくと
もっともっといろいろな物語の要素を読み取れそう。
作家というのはやはり
自分なりの神話を作ろうとするものなのかな
とか考えました。
最近なら桜庭一樹とか阿部和重とか。
もっともっと小説読みたいな。
おわり。
ビートルズのデジタル・リマスターを借りまくってます。
借りた端からitunesにぶっこんでます。
それを車につないで通勤時に流しっぱなしです。
音がいいからすごく心地いい。
とても40年前の音楽とは思えない。
当分の間はこれですごせそうだ。
あと5枚くらい借りればコンプリート。
さあ
これからツタヤへ返しに行こう。
先週木曜に有給取り
金曜の定休と連休だったときに
『1Q84』2巻読了。
『古事記』的な「物語」製作ラインは
ああいうふうに実現するのだろうか
と考えた。
自分の生れのルーツをたどるくだりにどうしても『源氏物語』を感じてしまった。
人知を越えた宗教的な力を経験したことはいまだにないけれど
そういう力のどうしようもない大きさと
それを追ってしまう業の恐ろしさを感じて
ドキドキしながら読んだ。
久々に
読書がとまらなかった。
1Q84 BOOK 1
2009年7月7日 書斎今ゆっくり読んでます。
でもなかなか進まず。
だけれど
いままでのムラカミワールドの中で
いちばんしっくりきます。
今までの作品はそのワールドに追いつくのが精一杯だったんだけれど
今回はすんなりとその中に入ってしまった。
「近未来小説」ならぬ「近過去小説」
という説明がどこかでされていたけれど
読んでなるほどなと思いました。
いまこうしているときでも世の中はすこしずつ
でもどうしようもないちからで動いていて
あとになって
あのころに世の中は何か変な方向に動いていたんだ
と言うことに気づく。
いまでも何となく世の中が変だ
というのはだれもが口ずさむフレーズだけれど
でもその実態をなかなか説明できない。
そんな
世の中の蠕動を書いているのかな
と。
まだ第1巻の終盤なので
これから先の展開が楽しみなのです。
ニュースどころか新聞も読みたくなくなってきた。
2009年5月15日 書斎書かれていることが問題なのではないのだ。
書かれていないということが問題なのだ。
新聞記事になることは
今日本の世の中で大事だ
と思われていることなのだろうが
ニュースとか新聞とかが選んだ事件や事柄を
ただ飲み込んでいくことは
無意識のうちに
問題意識をニュースや新聞によって決められていくことになる。
ニュースになっていない事実や新聞で取り上げられていない問題は数知れない。
しかし
メディアが取り扱わないというのは
そこにいろいろなバイアスがかかっているわけで
油断していたら
そのバイアスがそのまま自分の思考に染みついてしまう。
どうやって
情報を選ぶ?
どうやって
情報を手に入れる?
自分もまだまだ視野が狭い。
だから新聞を読むことで自分が持っていない視野を手に入れることが必要だ。
だが
夢中になって読んではいけない。
どこかで一歩引いて
新聞やニュースの「外側」をも
視野に入れていくことが必要だ。
最近
そんなことを強く感じる。
豊かさとは何か (岩波新書)
2009年5月15日 書斎この本は1989年初刷。
今手にしているのは2006年56刷。
読んでいて
労働者問題
介護問題
教育問題
環境問題
福祉問題
それらについての日本の現状がそのまま書かれている
と勘違いしてしまうほど
20年前の日本の現状の本質を捉えている良書といえる。
つまりは
この20年
日本という社会はこの本から全く学ぶことなく
そして重大な問題を今の今まで未解決のまますごしてきてしまったということだ。
そんな自分も
仕事にあくせくし
学校という職場で子どもたちを管理してゆとりを奪い
仕事をいいわけにして自分のゆとりを失い
体にも変調を来している。
豊かさとは何か。
いくら世の中が金と数字で動いていても
やはりいつかどこかで
人間として一番大切なものを
今目の前にいる生徒たちには伝えたい。
そして自分も
本当に大切な時間をつくらなければ。