去年のJ大の入試問題にいい文章が使われていた。
学者がどうしても学問の境地に辿り着けないのは
それは文章を書くことに溺れてしまうからだ。
人を感動させる殊のできる文章を書くのは難しい。
しかしひとたびそういう文章を書くと
自分の作品に自己満足し
「自分はもう十分に学問をした」と思い込んでしまう。
さらには他の感心がないことをすべて棄て去り
「自分は文士として生きていく」
「自分の職は文章を書くことだけだ」
などとのたまう始末。
そうして文に溺れてしまうのだ。
しかし
かの孔子は年老いてから魯に帰り
たった数年で儒教の経典となるかの六経を完成させた。
なぜそのようなことができたのか。
それは若いうちにはよく道を究め
そうすれば文章を書くことなど難しいことではなく
自然とその境地に達することができるのだ。
ところが後世の迷える学者達は
孔子の著作を読んでは
それに倣う事に汲々として文章を書くことばかりに専念する。
それゆえにますます学問の達成から遠ざかる。
それはすなわち「道」を十分に得ていないからだ。
「道」さえ得ることができれば
文章を書くことなどそれほど難しいことではないのに。
昔の中国の知識人は
文章や漢詩を書くことが第一条件だった。
でも
その「文章」をほかのことに置き換えれば
いくらでも現代のことに当てはめることができる。
入試に受かることばかりに汲々としている受験生。
視野の狭い現代の人々。
若いうちには結果は出ないのだ。
若いうちにはよくよく見聞をひろめて
その広い世界の中から自分の道を見出すべきなのだ。
若いうちから自分の世界を限定してしまうのは
なんともったいないことか。
とか言いつつも
自分もやはり自分で自分の限界を設けてしまっているのであり
もっともっと
広い広い視野を持っていないといけないのだなあと思うのであった。
コメント