生きていくための国語。
2006年10月1日 教室国語の授業。
考えれば考えるほどややこしくなってくる。
何故かというと
今までの歴史のナカでさんざん国語のことが言われ続けてきて
その言葉が折に触れて自分の頭の中に響くからだ。
「読み物ばかりの教科書だ」
「読解力が低下している」
「国語力の向上を」
「国語力とは何か」
「国語なんて呼び方はファシズムだ」
「日本語は論理力に乏しい言語だ」
「国語の教科書は道徳と同じだ」
などなど。
未だに
自分で授業をしていて
「この授業でいいのだろうか」という不安から解放されることはない。
じゃあどんな授業をすればいいのか。
それを考えると前に出てきた「言葉」が色々と出てきてしまう。
でも
そんな言葉のナカで考えるうちに方向性はちらちらと見えてくる。
要は
生きていくために必要なことばを身につけていく
そういう授業をすればいいのだ。
気を抜けばすぐに駄目な授業になる。
駄目な授業というのは教師が自分の知識をひけらかすだけで
生徒はその確認をするだけで
なにも力をつけることのない授業だ。
力をつけるには
自分で何かをやってみるということが必要だ。
その中で
できないという壁にぶつかり
できるためにどうすればいいかという「学び」につながっていき
それを見直して自分はこれこれこういう事を身につけた
とはっきり自己評価できる
そういう授業でなければならない。
そういうことを
一学期は考えていたのだけれど
全く余裕というものを失っていた二学期には忘れてしまっていた。
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