人間が学習する手段は色々とあるが
その方法として大きなシェをしめるのは言葉を解した学習だろう。

そう考えたとき
国語教育のするべきひとつの方向性は見えてくる。
高度な学習が可能なように
より高い言語能力をプログラミングすること。
そのためにする国語の学習は
単に高度なことばを覚えていくだけでなく(これも必要)
複雑な文章や会話を理解する能力を養うということになる。
それを学習者が自覚して学習することが肝心。
 
単純に考えれば
国語の能力が上がればあがるほど
他の領域にかんする理解能力も上がる。

しかし
人間は単に能力を上げて仕事をこなすだけに生まれ来た存在じゃない。
自分というもののなかにあるどうしようもない矛盾や
自分と他者との間にある様々な問題を解決しなくちゃならない。
 
そのときに
ことばを通じて人間というものをしっかり説明できなくちゃ生きていけない。
それはいわゆる哲学やら文学やらになる。
より高度な文学や哲学を読み
それを理解できるか
そしてより高度に自分の口から人間というものを説明できるか
 
そういうものを育てるのが国語というか言語というものだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
そのとき
日本語を使うという選択は
適切なのだろうかね。
 
 

 
 
 
 
 
 

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