会議というシロモノは
言わば連歌みたいなもんで
いかにみんなで一つの場で一つのものを緻密に作り上げていくか
というところにあると自分では思っている。
連歌と違うのは
連歌はイメージが詩的に連関しながら拡散していくことが知的興奮を生むのに対して
議論はイメージをいかに論理的に収束させるかというところに目的がある。
だがしかし
単に自分が意見を言うことに拘泥して
個々人が思いつきでバラバラなことをいう会議ほど不愉快なものはない。
それは
時間の無駄使いであり
知の無駄使いである。
いつまで経っても知的構築物はできあがらない。
理想的な議論というものは
賛成点と反対点を見出しながら
お互いがあるテーマを建築していくことだ。
それをいったいどれだけの人間が分っているのだろうか。
とりわけ教師という存在はしゃべりたがりが多いからたちが悪い。
自分が意見を言うことに陶酔し
テーマの主題を見失う
というか
テーマなんて関係なく
とにかく意見を言うこと自体が目的のように見えてならない。
自分はそういう人間タチに腹を立てながら
自分では議論の本筋に沿った意見を言っているつもりでいる
が
そう言うことをここで書いていること自体が
実は自己陶酔していて
上に書いたような人間タチと同じ穴のムジナ
なのかも知れない。
コメント
ほんっと、多い。
小学校は、みんな感覚で生きてるから、
すごくアバウトな感覚論を展開する人が多い。
「ちがうかもしれないけど、こうするほうがいいんじゃないかとわたしは思うのね?」
「よくわからないけど、それってよくないんじゃないの?」
とね。
経験の浅い人が口出しできない会議もあるし、
でもそういうところで、ついつい、
「ということは、今はここを話し合って決めればいいんですよね?」
と、口を挟んでしまうから、偉そうにって思われちゃうんだろうなぁ。
慎ましく、と思っていても、つい出ちゃうのね、そういうのって。
特に、今の職場は、結局は社長の意向しか通らないから、
時間をつぶすための会議、話し合ったという形をみせるための会議が多くて、
うんざりです。
ツイ本質的なことをいわざるをえなくなる。
たぶんオレも
職場ではえらそうなやつだ利口ぶってるやつだと思われている
でもしかたあるまい
じぶんの仕事のためだ。